アメリカから通商条約を押しつけられた幕府は
神奈川の港を開港することを約束した
当時、東海道と隔絶され地形的に離れ島に似ている横浜村に街造りをして
長崎の出島のように外国人を日本人から隔離してしまおうと考えた
寒村だった横浜村に大金を投じて町造りを行い
波止場の施設を整え、外国人居留地と日本人町を造成し、横浜村の村人は元村(今の元町)から強制移住させられた
そして外国人居留地と日本人町との間に橋をかけ
橋には「関門」という”関所”が設けられた
この「関門」の内側が「関内(かんない)」である
イギリス人居留者たちが本国でそうしたように競馬を楽しむ為、1860(万延元)年9月:元村の空き地で馬の競走を行った
しかし”関所”を往来しての観戦という不便さは長続きせず
その後
外国人居留地裏にて開催されるようになる
横浜州干弁天社裏西の海岸を埋め立てて造成した土地(現在の横浜市中区相生町5丁目および6丁目)
1862(文久2)年:居留地での競馬の施行体として横浜レース・クラブ(のちの日本レース・クラブ)が組織される
同年5月:横浜新田(現在の南京町)でも競馬が開催された
そこには走路幅:約11m、1周約1,200mの本格的な環形コースが作られた
近代競馬を性格付ける競馬番組、競馬規則を正式に定めた初めての開催であり
番組表や施行規定から見て、英国などの「本場」や「植民地」で実施されていた競馬に範をとったものであった
その後
居留地の人口増加で競馬場敷地が住宅地に転用されるために競馬施設は撤去され
現在の横浜新田(中華街)や山手などに馬場を移して一時的な開催を施行した
当時、「横浜新田堤塘競馬場」という名前も存在した
他にも
イギリス第20連隊の練兵場(現在の港の見える丘公園)
幕府が造った射撃場(同軍砲術場)(現在の横浜市中区大和町)などでも競馬が開催されたが
都市環境の整備改良の為に次々と競馬場地が適用され、それぞれ短期の開催で終わった
当時の日本人にとって未知ではあったが
居留民たちは心身の健康のためにはスポーツ・運動を必要とする「科学」をすでにもっており
その中で競馬場と乗馬用遊歩道の提供要求も英仏公使らを通じて幕府に対して出され
競馬場問題が、外交案件のひとつともなり
1867(慶応3)年:根岸の地(横浜市中区)に幕府の手により競馬場が造成され横濱競馬場(根岸競馬場)が誕生し
以降、根岸にて居留地競馬が行われるようになった
神奈川県横浜市
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